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ポルトガルの観光地

【観光地】

  • コメルシオ広場
  • コメルシオ広場
  • リベイラ宮殿があった場所
  • ポルトガル・リスボンにある広場。『貿易広場』という意味である。テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paço、宮殿広場の意味)が有名である。これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。地震後、広場はポンバル侯の命令によりポンバル街の再建の一部として完全に改修された。
  • 歴史
    テージョ川岸の都市開発は、市の城壁外にマヌエル1世が新たにリベイラ宮殿を建てたために、1500年代初頭に明確に推進された。この一帯は港湾関係の建物が開発され、ポルトガルのアジア・アフリカ・アメリカの海外植民地とヨーロッパの他国をつなぐ貿易を取り締まっていた。
    リベイラ宮殿前の広大な広場(170メートル×170メートル)は、テレイロ・ド・パソと呼ばれ、建築家エウジェニオ・ドス・サントスにより均整のとれた姿に再建された。彼は、広場を広大に、テージョ河に向けて開かれたUの字の曲線の中に四角の形に設計した。建物の1階部分はギャラリーとされ、U字型の2つの終わりの部分には、崩壊したリベイラ宮殿の記念塔を回想させる2つの塔が建つ。装飾の細かい部分は変えられ、広場東塔とアウグスタ通りのアーチだけが19世紀になって完成したが、ドス・サントスの計画はほぼ完全に実行された。広場はコメルシオ広場と名付けられ、リスボン経済の新たな一部となった。広場の均整のとれた建築物は、政府関係の庁舎、港湾・貿易関連の目的で使用された。広場の中心にはジョゼ1世の像が建つ。このブロンズ像は、リスボンで初めて王へ献上された記念像で、当時最高の彫刻家ジョアキン・マシャド・デ・カストロの作品である。アウグスタ通りに向かって広場は開き、他のリスボン旧市街とつながる。エウジェニオ・ドス・サントスが考案したアーチは1875年に実現した。このアーチは『アルコ・ダ・ルア・アウグスタ』(Arco da Rua Augusta)と呼ばれ、ヴェリッシモ・ダ・コスタのデザインである。時計と、栄光の像と呼ばれるヴィリアトゥス、ヴァスコ・ダ・ガマやヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ポンバル侯の像が立つ。
  • サン・ジョルジェ城
  • サン・ジョルジェ城
  • ポルトガル・リスボンにある城
  • 発祥
    丘の上の最初の要塞化は紀元前2世紀頃であるということだけ知られているが、考古学調査から、少なくとも紀元前6世紀までには、フェニキア人・古代ギリシャ人・カルタゴ人の影響を受け、土着のケルト人とイベリア人が占領していたとわかった。のち、古代ローマ帝国、スエビ族、西ゴート王国、ムーア人と支配者が変わった。
  • 中世
    レコンキスタが南下してくると、城とリスボンの町はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちの初代ポルトガル王アフォンソ1世)により、ムーア人から取り戻された。彼には第2回十字軍に参加した北ヨーロッパ貴族の援助があった。1147年のリスボン包囲では、十字軍勢だけが生き残った。有名な伝説によると、マルティン・モニズという騎士が城の扉の一つが開くと、閉めさせないために己の体を盾にして立ちはだかり、仲間の騎士たちを入城させて自身は絶命したという。城は、12世紀後半のムーア人侵入を持ちこたえた。リスボンは王国の首都として拡大し、1255年に王宮となった(アルカソヴァ城Alcáçovaの名前で呼ばれた)。1300年代にはディニス1世が大改修を行った。1373年から1375年にかけ、フェルナンド1世が新たにリスボンを取り巻く城壁をつくらせた(セルカ・ノヴァCerca NovaまたはフェルナンディーナFernandinaという)。一部は古いムーア人の城壁と取り替えられ、かつて防御のない部分だったところを取り囲むように設計された。77の塔、周辺は5,400メートルで、わずか2年で建てられた。14世紀後半には、城とリスボンはカスティーリャ軍の侵攻に立ち向かった。アヴィシュ朝の開祖ジョアン1世は、城を聖ジョルジェへ捧げた。彼の王妃フィリパはイングランド王女であり、どちらの国でも龍と戦う聖人ジョルジェ(英語では聖ジョージ)は人気があった。王宮として、城はインド航路開拓者ヴァスコ・ダ・ガマを歓待するのに使われた。城では1502年に劇作家ジル・ヴィセンテの『モノローゴ・ド・ヴァクエイロ』がマヌエル1世の嫡子ジョアン(のちのジョアン3世)の誕生を祝い上演された。
  • 近世
    6世紀初頭、マヌエル1世はテージョ川沿いに新しい王宮リベイラ宮殿を建てた。古い中世のアルカソヴァ城はその存在意義を失い始めた。1531年の地震でアルカソヴァ城は損害を受けた。1569年、セバスティアン1世は自身の住居とするため王宮アルカソヴァの再建を命じた。セバスティアン王が死にスペイン支配が始まると、城は兵舎や監獄となった。城が放置される時代は1940年代まで続いた。拡張工事が行われ、城にあった不釣り合いな建築物の多くが、前世紀にまでに破壊されたものと混じり合った。城はどこよりも素晴らしいリスボンの眺めが味わえることから、観光客に非常に人気がある。
  • 建築
    城一帯は城壁に取り囲まれた、四角形の要塞の姿である。かつての王宮跡、庭園とリスボンを眺められる広い広場がある。城の主要門は、1846年の日付とマリア2世の名でポルトガル王国の紋章が加えられた19世紀につくられたものである。この門を通るとアルマス広場へ入る。古い大砲と、城を最初に征服したアフォンソ1世のブロンズ像が立つ。この像は、ギマリャンイス城近くにあるロマン派の彫刻家ソアレス・ドス・レイスの19世紀の作品の模造品である。最も高い要塞部分の北西には、中世の城があった。包囲された時代、もし要塞を攻撃され侵入されたら、城が最後の強固な抵抗の場所だった。四角形の10の塔がある。歩いて塔を上ると、360度の素晴らしいリスボンの眺めが楽しめる。
  • サンタ・エングラシア教会
  • サンタ・エングラシア教会
  • 国立のパンテオン
  • ポルトガルの首都リスボンにある17世紀創立の教会。20世紀に入ってから国立のパンテオン(名士合祀殿)となり、ポルトガルの著名な人物が葬られている。教会はアルファマ地区にあり、近くにサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院がある。現在の教会の建物は、ブラガの殉教者聖エングラシアに捧げられた以前の教会の替わりである。最初の教会は1568年頃、マヌエル1世の王女マリアが後援していた聖エングラシアに捧げられた。1681年、最初の建物が崩壊したあとに現在の教会の建設が始まった。新たな設計者は、王室建築家でポルトガル・バロック期の重要な人物の一人ジョアン・アントゥネスがおこなった。建設は1682年から、アントゥネスの死んだ1712年にかけ進められた。ジョアン5世は教会に興味を失い、大規模なマフラ修道院に資金をまわした。教会は未完成のまま20世紀まで放置された。20世紀半ばになりドームが加えられ、教会は1966年に再び落成された。
  • 建築
    ジョアン・アントゥネスは、サンタ・エングラシア教会にポルトガルで試みられたことのない、精巧な設計を準備していた。教会は、ギリシャ十字の形で中央に引きつけられた平面図をしていた。角には四角い塔をもうけ、ファサードはフランチェスコ・ボッロミーニのバロック様式に似せた。ファサードにはガリレ・ホールと像を据えた3つのくぼみがある。教会入り口には、2人の天使が抱えたポルトガルの紋章を持つ美しいバロック様式の堂々とした正門がある。20世紀になってもうけられた高い中央ドームがある。
  • パンテオン
    1966年、独裁者アントニオ・サラザール政権時代、サンタ・エングラシア教会は国立のパンテオンに指定された。大統領マヌエル・デ・アリアガ、テオフィロ・ブラガ、シドーニオ・パイス、オスカル・カルモナ、作家ジョアン・デ・デウス、アルメイダ・ガレットとグエラ・ジュンクエイロ、国民的ファド歌手アマリア・ロドリゲス、らの人物が埋葬された。ルイス・デ・カモンイス、ペドロ・アルヴァレス・カブラル、アフォンソ・デ・アルブケルケ、ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ヴァスコ・ダ・ガマ、エンリケ航海王子らの記念碑もある。
  • 発見のモニュメント
  • 発見のモニュメント
  • 大航海時代を記念した記念碑
  • ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大航海時代を記念した記念碑。ポルトガル語では「パドラオン・ドス・デスコブリメントス」という。
  • 記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてある。建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の万国博覧会の象徴として制作したものである。独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表しているとみられている。最初に作られた記念碑は、もろい素材で制作されたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。彼は記念碑にある像の一つとなり、川を見つめている。エンリケの後方に、その他の同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師らの像が並ぶ。約30名のポルトガル人の像がある。 記念碑の内部にある小さなスペースには、リスボンの歴史を展示している。記念碑の頂上(エレベーターで上がれる)では、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めが楽しめる。ベレン地区には、大航海時代の建築物で世界遺産であるベレンの塔とジェロニモス修道院がある。
  • モニュメント前広場のモザイク
    記念碑正面にある石畳は、多くのポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図のモザイクがある。このモザイクは、1960年に南アフリカ共和国から贈呈された。なお、世界地図にはポルトガルが「発見」した年が記述されているが、日本の場合ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されている。
  • アジュダ宮殿
  • アジュダ宮殿
  • ブラガンサ王家の王宮
  • 宮殿はアジュダ地区にあり、1755年のリスボン地震でリベイラ宮殿が崩壊したあとにジョゼ1世により建てられた、木造のかつての王室兵舎だった。この木造建築はマリア1世治下の1794年に火事で全焼し、建築家マヌエル・カエターノ・デ・スーザによるバロック・ロココ様式建築の新しい宮殿に生まれ変わった。この時から、典型的なバロック風の窓が宮殿の塔の低層部分についている。1802年、ポルトガル人建築家ジョゼ・ダ・コスタ・エ・シルヴァとイタリア人建築家フランシスコ・クサヴィエル・ファブリの、モダンなネオクラシカル様式の壮麗な建物の計画が信任された。1807年、ブラガンサ王家は半島戦争の余波によるフランス軍侵攻を避けるためブラジルへ亡命し、建設計画は非常に遅く進み、のちファブリからアントニオ・フランシスコ・ロサへ引き継がれた。財政難のため、建設計画は一定の尺度に従い縮小された。アジュダ宮殿は、リスボンで初期に造られたネオクラシカル様式建築の一つである。宮殿は中庭で四角に仕切られている。宮殿の西翼は未完のままで、東翼は2つの塔をもつメイン・ファサードがある。ファサード中央部はポルトガルの紋章を掲げたティンパヌム(破風の三角壁)で、ジョアキン・マシャード・デ・カストロ作の力天使像と19世紀初頭に作られた12使徒像のあるエントランス・ホールがある。内部は19世紀のポルトガル人芸術家の手による重要な作品で飾られている。
  • ペーナ宮殿
  • ペーナ宮殿
  • 19世紀ロマン主義を象徴する建築
  • 現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。
  • 歴史
    1755年のリスボン地震が首都と周辺地域を荒廃させ、ペーナ修道院は廃墟と化した。しかし、ニコラウ・シャンテレネ作とみなされる大理石と雪花石膏でできた壮麗な祭壇背後の棚を備えた礼拝堂は、無傷であった。シントラの山頂に広がるこれらの残骸が、若いフェルナンドを驚愕させたのだった。1838年、カステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城、という意味。かつてのムーア人の城の廃墟)と他いくつかのキンタス(別邸)のすぐ隣である旧修道院をフェルナンドは手に入れ、周辺を全て囲いで囲んだ。フェルナンドは、空想的な夢を持っていた。古い修道院を再建し、シントラ滞在時にポルトガル王家が滞在する夏の離宮となる新しい部分を付け加えるのだと。ロマン主義的な再建命令が、陸軍中将であり採掘技師でもあったヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・エシュヴェーケに下された。宮殿全体はほぼ、巨大な岩々の上に壮大に立つ。 フェルナンドは、異国風の豊富な種類の樹木を植えてイギリス式公園をつくることを考えていた。このようにすると、公園とペーナ宮は魅惑的な王子と王女が登場する本の世界のようになる。宮殿のとっぴな様式は、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城を見る者に思い起こさせる(ペーナ宮殿が建てられてから30年後に、このバイエルンの城は建設された)。この違う様式の模倣と組み合わせは成功したといえず、マヌエル様式の窓のとなりにムーア風の扉があるといった具合に、しばしば不思議なコントラストを描く。
  • 屋内装飾
    ペーナ宮殿の屋内装飾は、王家の夏の離宮として整備された。すばらしいしっくい細工、トロンプ・ルイユの施された壁、19世紀以来の多種多様なタイルの外装が、おびただしい数の王家の美術品の一部となっている。現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用される。
  • サン・フランシスコ教会
  • サン・フランシスコ教会
  • 重要なゴシック様式の教会
  • ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。
  • 歴史
    ポルトでフランチェスコ会が設立されたのは13世紀である。修道士たちは反感を買い、他の会派に属する聖職者や世俗の信徒から迫害された。ローマ教皇インノケンティウス5世の教書『ブラ・ドエレンティス・アセピムス』( Bulla Doelentis accepimus )が出されるに及んで、修道院としての土地が彼らに寄進された。修道士たちは最初すぐに、聖フランチェスコへ捧げる小さな教会の建設にとりかかった。修道士たちは、ポルトガル王フェルナンド1世の庇護の元で1383年にこの小さな教会を拡張し、ポルトガルの托鉢修道会のための典型的な、簡素なゴシック様式設計でさらに広い教会を建て始めた。この建設工事は1425年まで続いた。教会全体の建設工事は広範囲に変更されず、サン・フランシスコ教会はゴシック建築の良い例となった。多彩色の花崗岩でできた聖フランチェスコ像(13世紀)が入り口隣に立っており、これは初期の時代の遺物である。1833年のポルト包囲が原因で火に包まれ、古い回廊と教会一部の崩壊を招いた。ポーチは、今日のバロック様式に建て替えられた。 興味深いものがサン・フランシスコ教会近くにある。主礼拝堂のそばに、18世紀のネオクラシカル様式のテルセイラ・デ・サン・フランシスコ教会、カーサ・デ・デスパショスがある。これらは美術館となっていて、興味深いバロック内装を持つ。アプスそばには、ポルトの商人が19世紀に建てた、壮麗なネオクラシカル様式のボルサ宮殿がある。
  • 芸術
    教会のメイン・ファサードは大きく、精巧なバラ窓はゴシック様式である。これだけがファサードの原型部分である。主出入り口はソロモン式円柱のある、今や典型的バロック様式となっている。しかし川と向きあう南側出入り口は今もゴシック様式である。 教会には3つの側廊のある本堂(中央本堂が一番高い)があり、3つの礼拝堂は交差廊とアプスを備える。交差廊中央部分は、交差廊上と主礼拝堂の巨大な窓によって猛烈に光が入る。五角星形型のトラセリーのある主礼拝堂の小さなバラ窓からも同様に日が差す。バロック期の金箔細工が、ゴシック建築の教会と完全に調和していないとしても、バロック期の内部装飾はポルトガルで最も傑出したものの一つとみなされている。この富はフランチェスコ会の清貧さと完全に不一致であり、ポルトの町の聖職者の肉体に刺さるトゲとなって、彼らは信仰のための教会を閉じたのである。 その他に知られるポルトの金箔細工の例は、サンタ・クララ教会の内装である。